「確かに猫、ですね」
リザ・ホークアイ中尉の冷静な声が、客観的事実を述べる。
叶うことなら事実を認めたくなかったらしいロイ・マスタング大佐も、ホークアイの言葉の前には、それが現実であ
ることを認めざるを得なかったようで。
「……まったく、何だっていうんだ」
額に手を当てて、大きくため息を吐き出した。
吐息と共に、頭上の猫耳が、ぺたんと垂れる。
うわあああ、と。
エドワードは、またしても心の中で、叫び声を上げる羽目になった。
ただし。
今度は、驚愕ため、ではなく。
その仕草の、あまりの可愛らしさに、だった。
---
話は、少し戻る。
「こんにちはー、タッカーさん」
「今日もよろしくお願いします」
二日ぶりにタッカー邸を訪れた、エルリック兄弟は、けれどいつまでたっても返って来ない返事に、互いに顔を見合
わせた。
「あれ?」
「誰もいないのかな?」
とりあえず玄関のドアに、鍵はかかっておらず。
「タッカーさーん?」
おそるおそる、足を踏み入れる。
「……んー」
三歩ほど進んだところで、エドワードが立ち止まった。
「どうしたの、兄さん」
アルフォンスが問いかける。
「……いや、何でも…」
それには、首を振って答えつつも。
エドワードはすっきりしない表情だ。
何が、とははっきりと言えない。
けれど、確かに何か、この家に足を踏み入れた途端、異変を感じたのだ。
かたん、とどこかで音がした。
「あ」
「居るみたいだね」
兄弟は顔を見合わせ。
「タッカーさぁん!」
声を揃えて、呼びかける。
少しの間をおいて、一番奥の扉から、タッカーが姿を現した。
「ああ……君たちか」
「……あの、今日も……」
そこで、アルフォンスの言葉は途切れた。
明らかにタッカーの顔色は悪く、何かにとり憑かれたような目をしている。
おかしい、と。
兄弟はまた顔を見合わせるけれど。
「ああ……私は研究がちょうどいいところでね、手が離せないが、書庫なら好きに見ていってくれていいよ」
それだけ言って、またそそくさと廊下の奥へと消えていく。
「兄さん……」
心配そうに、アルフォンスが呼びかける。
「ああ……嫌な感じだ」
タッカーの消えたドアをじっと睨んで、エドワードが呟いた。
どことなく重い気がかりを抱いたまま、その日も二人は書庫で本の山に埋もれて過ごしていた。
陽が傾き始めた頃、だったろうか。
門の前に車が止まったのに、アルフォンスが気付いた。
「……あれ?」
止まったのは、軍の車で。
なんの気なしに窓から見遣れば、見慣れた長身が降り立つところ。
「兄さん、ハボック少尉だ。どうしたんだろ?」
夢中になっている時なら、まるっきり周囲の音など耳に入らないエドワードだが、ちょうど一冊終わったタイミング
らしく、アルフォンスの言葉に顔を上げた。
「少尉?何だろうな」
自分達に呼び出しか、と立ち上がり、玄関へと下りていった。
「……何の、ことですかな」
「しらばっくれんな。あんたが昨日、大佐を呼び出したのは分かってる」
玄関では、タッカーとハボックが押し問答中だった。
ハボックは、決して声を荒げているわけではない。
けれど、いつものハボックなら決して兄弟に見せることのない、凄みが感じられる。
「マスタング大佐はどうした、って聞いている」
耳に届いたハボックの台詞に、エドワードは、駆け出した。
「少尉!」
「おぉ」
「大佐、どうかしたのか!?」
「ん……いや、それをこれから綴命の錬金術師殿にお教えいただこうか、とね」
ハボックへ。
そして、タッカーへ。
視線を走らせたエドワードは、そして、今朝から感じていた「嫌な感じ」の、間違いではなかったことに気付いた。
「……っ!」
考えるより早く、足が動く。
二人に、背を向けて。
今朝、タッカーの消えていった、一番奥のドアの、その向こうへ。
「ま、待て」
追おうとするタッカーの肩を、ハボックが掴む。
「……それじゃ、案内して貰えますかね」
「大佐!どこだっ!?」
呼びかけに、応える声はなく。
腹立ち紛れに、どんと鋼の右手を壁に叩きつければ。
「……君達は何を……」
薄ら笑いを浮かべた、タッカーがハボックを伴って下りてくる。
その、タッカーの立つ書架の、さらに奥。
目立たないドアがもう一つあることに、エドワードは気付く。
「そこをどけっ!」
鍵のかかったドアを、力まかせに蹴り開けれて。
そうして。
そこで、エドワードが見たモノは。
「騒々しいぞ、鋼の」
あまりにこの状況に場違いな台詞と。
ありえないぐらい平然とした、いつもの表情と。
「な、な……」
ロイ・マスタング大佐の頭上で、ぴんと形良く立った二つの、黒い毛並みも滑らかそうな猫の耳と。
背後で揺れる、細く長い尻尾、と。
「何だよ、それーっ!?」
叫んだ自分の反応は。
絶対。
平然としているロイ本人より、正しい行動のはず、で。
ありえない。
ありえない。
ありえない。
頭の中で、ぐるぐる回る、否定の言葉。
なのに。
ロイときたら、僅かに小首を傾げるだけで。
ぴく、と。
後ろで、尻尾が揺れる。
うわ。
正体不明の動揺に襲われて、エドワードは絶句した。
かくして。
エドワードがあまりの非現実的な事態に、対処しきれなくなっているところへ、遅れて到着したハボック少尉は、少
なくともエドワードよりは、ロイ・マスタングという人間のある一面をよく理解しており。
それゆえ、立ち直るのも早かった。
「何だというのだ、一体」
一人平然と──いや、明らかに苛立ったように、文句を言うロイのもとへとづかづかと歩み寄り、ロイの背後で揺れ
る、どう見ても血の通った生き物のそれである尻尾を、一見無造作に掴んだ。
「………はい」
手前に引き寄せて、証拠物件をロイの眼前に突き付ける。
「うわあああああ」
初めて耳にする、ロイ・マスタングの絶叫に。
ようやく、エドワードも、ロイが「分かっていなかった」ことに気付いた。
………ありえねぇ。
先程とは、違う意味で。
先程とよく似た言葉を、心の中で、リピートする。
っつーか。
気付けよ。普通。
ロイ・マスタングという人間は。
この三年あまりのつき合いで、エドワードが思ってきたよりも、ずっと「厄介」な人間、なのだ。
「おい、大将。アル。……エド?」
「……えっ!?あ、ああ少尉、何?」
「大佐。しばらく、見といて」
あれ、と。
ハボックが、指差す先には。
認識した状況を受け容れることに失敗して、ただただ呆然としているロイがいる。
「……ああ」
一体、何をどこからどう考えるのが正解なのか。
呆然としているロイを前に、力無く座り込んで。
そんなエドの後ろに、アルもちょこん、と座り込んで。
とりあえず。
どうしよう、と。
エドワードはのろのろと考え始めた。
さて。
国家錬金術師二人が、ただひたすら呆然としている間に。
とりあえずただの軍人であるハボックの行動は早かった。
まずは東方司令部に連絡を入れ、ホークアイ中尉にマスタング大佐の身に非常事態の起きたことを伝える。
同時に、タッカーの身柄確保するための、応援派遣を要請した。
ハボックの思ったとおり、すぐさま一個小隊を引き連れてホークアイがタッカー邸へと駆けつけた。
タッカーの身柄をとりあえず彼らに預け、当面の現実的な指示をホークアイが与えている間も、ロイの姿は決して誰
の目にも触れないように留意する。
ばさ、と。
頭から被せられたハボックの軍服の上着を、ひどく恨めしそうに、ロイは軍服の下から上目遣いに見上げたけれど。
幸い非常時に強い部下達は、差し迫った生命の危機とは無縁らしい上司の一大事にはさして動揺せず。
むしろ上司を放ったまま、さくさくと現実的な処理をこなして見せたのだった。
タッカーの錬金術により負傷した、というもっともらしい口実の下、頭からハボックの上着ですっぽりとくるまれ、
尻尾がはみ出ないように、横抱きに抱えられたマスタング大佐ご一行様の最後尾を、エドワードとアルフォンスは、の
ろのろとついていった。
そうして。
やっとまる一昼夜ぶりに戻ってきた東方司令部の司令官室には、ロイを中心にエルリック兄弟、ホークアイ中尉以下、
いつもの面子が揃っていた。
「確かに猫、ですね」
「……まったく、何だっていうんだ」
疲れきったように呟くロイの頭上では、事態が夢でないことの証のように、ぺたんと黒耳が伏せられている。
「彼のしたことは人として許されることではありませんが……」
ホークアイ中尉は、そう言って言葉を切った。
ぴく、と視線の先で、漆黒の尻尾が跳ねる。
人として。
そしてマスタング大佐の近しい者として。
許される所業ではない、のだけれど。
怒りより先に、笑いと萌えがこみ上げてしまって、憤りになりきれない、のだ。
「こんなこと言っちゃいけないのは分かってるんですけどねぇ……」
銜え煙草のハボック少尉が、ぽつりと呟く。
「じゃあ言うな」
との、ロイの制止は一瞬間に合わず。
「……うっかり綴命の錬金術師に感謝しちまいそうっすよ」
ハボックの、台詞に。
ぴくぴく、と。
ロイの頭上の耳が震える。
その、あまりに愛らしい震えっぷりが、どうしても事態の深刻化を妨げてしまうのだ、とは。
さすがに気の毒すぎて、誰もロイにその事実を説明する勇気はなかった。
タッカーは、軍の監視下で拘束されることとなった。
ロイと猫の分離に関しては、タッカーの研究を再検討し、生体錬成に関して現時点での第一人者といって過言でない
エドワードとアルフォンスが請け負うこととなった。
「一つ貸し、な」
にやり、とエドワードが笑う。
「まったく……その貸しの分も、後でタッカーの野郎から利息つけて取り立ててやる」
むす、とした顔でロイが応じる。
最初の衝撃からは、さすがに立ち直ったらしい。
とりあえず落ち着くと、若干の現実逃避を含みつつ、どうでもいいことでわいわいと騒いでしまいたくなるのが、過
大に過ぎるストレスに見舞われた後の心性だろう。
「しっかしその尻尾、どう生えてんすか?」
ぽつりと呟かれた、ハボックの台詞に。
「あ、俺もそれ気になってたんだ」
「そうですよね」
一同が、頷く。
一斉に視線を注がれ、ロイは僅か身じろいだ。
その場に居合わせた全員の視線が、目立つ頭上の耳から、軍服の下に隠れた尻尾のつけ根へと集まる。
「んじゃ、ちょっと失礼して」
当然の顔で、ハボックの手が、ロイの尻尾にかかる。
「離せ!」
むろん、ロイは抵抗する。
「大体!そんなものお前らが知って何になる!」
何になる、ってか。
ただの好奇心です、と。
さすがに胸を張って答える度胸は、ハボック達にはなく。
「そんなもの、何の解決の手段にもならないだろうが」
ロイの抗弁を、はーい、と手を挙げてエドワードが遮った。
「大佐」
「何だ」
「俺は大佐を元に戻すのが役目だし。そのためにはどんな風に合成されてるのか、ちゃんと知っとかないといけないん
だけど」
一見、真面目に。
けれど、最後にちらり口元に浮かんだ笑みに、誰もがエドワードの下心を確信した。
「……」
「んじゃ、そーいうことで」
国家錬金術師の特権、とばかりに。
ハボック以下司令部の面々に、ことさら愛想よく鋼の右手を振って、エドワードは左手でロイの右手をとると、あま
りの非日常事態の連続に、いまいち抗いきれていないロイを引きずって、別室へと移動した。
ばたん、とドアを閉めて。
「大佐」
油断すると笑いがこみ上げてしまいそうな表情を、できるだけ真剣に見えるよう引き締めて、促す。
「……」
それでもしばし逡巡したようなロイだったが、あっさり覚悟を決めたのだろう、軍服の襟へと手をかけた。
ばさり、と乱暴に、脱いだジャケットを椅子に放り出す。
かちゃ、と音を立てて腰のベルトを外し、アンダーコートを同様に放り投げる。
ああ自棄になってるなぁ、とこっそり心の中でエドワードは思う。
ズボンのベルトを緩めたところで、ロイはエドワードに背を向け、呼びかけた。
白いシャツと少しずらされたズボンの間から、ぴんと伸びた黒い尻尾がまるで手招くかのように、一度左右に揺れる。
「……鋼の。これでいいだろう?調べるなら、好きなだけ調べろ」
「はいはい……」
ちょっとだけ可哀相かも知れない、と思いながらも。
ためらいない動作で、エドワードはロイの白いシャツを捲り上げた。
無駄なく引き締まった背中は、予想以上に白く。
ついうっとりと視線を滑らせれば、その、背骨の終わる辺りに、不意に出現する漆黒の尻尾。
「ふうん……」
確かにそれは、そこから生えていた。
何気なく、指で触れれば、ぴくり、と身じろぐけれど、ロイはじっと堪えている。
それをいいことに、生え際を人差し指でなぞる。
人の背中と、猫の尻尾と。
継ぎ目は、驚くほど滑らかだ。
つう、と。
今度はある種の意図をもって、尻尾の付け根に沿って、指を滑らせる。
「っ!」
さっきより露骨に、ロイが反応する。
にや、と。
エドワードは、悪戯っ子の笑顔になる。
両手を伸ばして。
鋼の右手で、尻尾の付け根を掴まえて。
生身の左手で、するっと先端まで撫で上げる。
「うあっ……!」
途端、ひときわ大きな声が上がる。
うわぁ、と。
初めて発見したロイの弱点に、わくわくする。
けれど、残念ながら楽しい悪戯は、そのあたりが限界だったようで。
「鋼のっ!君はいったい何をしているんだっ!」
勢いよく振り返ったロイは、大きくエドワードの手を振り払う。
いや、正確には振り払おうとしたけれど、その時にはもうエドワードは一歩退いていたので、ロイの手は虚しく宙を
切っただけだった。
「何、って確認」
しれっとエドワードは答える。
「……何のだ」
ぴくぴくと眉間あたりを怒りに震わせながら。
それでも何とか冷静さを保とうと、ロイは抑えた口調で問い掛ける。
「この尻尾がさ、どれだけ大佐に融合してるのかなって思って。でも本当に完全に融合してるんだね。……反応いいし」
「……」
言い返すことさえ忘れて、絶句しているロイに。
せっかくだから、追い討ちを一つ。
「あ、大佐。顔、赤いよ」
「…………鋼の」
たっぷり三十秒は沈黙していたロイ・マスタング大佐は、それこそ地を這うような声で、エドワードの二つ名を呼ぶ。
「ま、大佐の身体のことは、これからゆっくり研究させて貰うから」
それが、容易ならざる道であることなら、人一倍分かっているエドワードだから。
だから、こそ。
あえて、笑って。
冗談と悪戯と、そして下心のオブラートで、包み込んで。
決意を告げた。
そうして。
「……精々頑張ってくれたまえ」
ロイは、といえば。
疲れきった顔で、他人事のように、偉そうにそう一言返すのがやっとだった。
エドワードの、一癖どころか二癖三癖ありそうな笑顔を前に。
もしかして、自分の今後は、色んな意味で怖ろしく前途多難だったりするのだろうか、と。
ようやく、本当に本気で、事態の深刻さを憂え始めたロイ・マスタングだった。
(続)
'04.02.14
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