・軍の猫 6・

 
・6
 コトコトと優しい音を立てて、鶏肉が蒸し上がるのを待つ。
 今までより一時間早い、起床と。
 お弁当の、用意。
 元々、東方司令部では誰より早く出勤するホークアイである。
 大変でない、と言えば嘘になる、けれど。
 
「まさか、ね」
 こんな日がくるとは。
 
 人生。
 何が起こるか、本当に分からないものだ。
 
 国家錬金術師にして、若き精鋭士官。
 ロイ・マスタング大佐に憧れる女性兵は多い。
 
 たぶん、それは。
 とても、当たり前のことなのだ、と。
 理解も、している。
 彼によって生じる己の苦労の数々など、彼女達は、決して知ることがないのだから。
 そして、彼に憧れるより、彼のために苦労することを選んだのは、他でもないホーク
アイ自身なのだから。
 
 
 
 けれど。
 今。
 毎日、彼のためのお弁当を作るのは、ホークアイの役目で。
「こんなことが知れたら、私は全軍の女性兵から恨みを買うかも知れないわね」

 本当に。
 こんなことは、ホークアイの人生設計には、これっぽっちも含まれていなかったのだ
けれど。


 


 
 さて。
 話は、数日前に、戻る。
 
 ロイ・マスタング大佐が司令室で発熱したのは、猫とキメラ化して三日目のことだっ
た。
 
 予期されていなかったことではなかった。
 突然、猫化したのだ。
 体調不良の一つや二つ、生じて当然だった。
 
 
 すぐに、司令部内の軍医が呼ばれた。
 ロイの猫化は、一応、司令室の主なメンバーのみにしか知らされていない極秘事項で
あったから、当然、軍医は仰天した。
 
「で?大佐の容態はどうなのですか?原因は?」
 厳しい顔したホークアイ中尉に、厳しく詰問されても。
「有り過ぎます」
 としか、彼は、答えられなかった。
 
 当然だ。
 簡単に検査をしてみただけでも、血液から内臓から、めちゃくちゃな数値になってい
るのは明白だった。
 これで、何ともない、なんていう方が、あり得ない。
 
「対応は?」
「……率直に申し上げまして、私達医師の手に負えるものでは」
 
 軍医は、あくまで人間のための医師で。
 キメラは、錬金術師の領域だ、と。
 
「……役立たず」
 ぼそり、呟かれた言葉は、幸い大佐と少尉の耳にしか届いていなかったようで。 
 それが、自分に向けられた台詞でなかったことに、上司と部下はそっと胸を撫で下ろ
した。
 


 
 
「どうしたもんすかね……」
「だから大したことはないと言っている。お前達は仕事に戻れ」 
 熱い息を苦しげに吐き出すくせに。
 まだ強がろうとする上司の、こんな時だけ仕事熱心な発言は、当然、病人の譫言とし
て処理された。
 
「大佐。もし差し支えありませんでしたら、もう一人、診ていただきたい医師があるの
ですが」
 珍しく少しばかり迷った表情で、ホークアイが切り出した。
「君に任せる」
 こういう時、ロイは全面的にホークアイを信頼している。
 それが、分かるからこそ。
「ありがとうございます」
 綺麗な角度で、頭を下げて。
「ではハボック少尉、車を回してちょうだい」
 そう、ハボックに命じてくれた中尉に、ハボックは心の中で感謝した。

「ハボック少尉。次の通りを右折して」
「はい、中尉」
 ホークアイの指示に従って、ハンドルを切る。
 小さな通りを2ブロックほど進んで。
 目に入ったのは、手書きの素朴な看板が一つ。

『にこにこ動物病院』
 
「………」
 運転席に座る都合上、誰よりも早くその看板が目に入ったハボックは、嫌な予感が背
筋をよぎるのを感じる。
 深く、煙草の煙を吸い込んで。
 予感が、確定に変わるまで、僅か二秒。 
「大佐、着きました」
 何の迷いもない声と言葉に。
 自分は、一生、この美しい上官には、太刀打ちできないのだろうな、と思う。 
「……ここ、かね?中尉」
 見間違いようのないほどくっきりとした看板を、まるで悪あがきのようにもう一度だ
け見遣って。
 それから、なんとも複雑そうな顔と声で、ロイが確認する。
「はい。民間人ですが、信頼できる人柄と」
 秘密は守られるはずです、と。
 恐らく故意に、ロイの言いたいこととは異なる返答をホークアイは返す。
 
 ……動物病院………。
 ……獣医………。
 
 がーん、と。
 ゴシック体で大書された効果音が背後に見えそうなくらい、ロイは、派手にショック
を受けている。
 念のために、と。
 ロイの身分が分からぬよう軍服の上着を脱ぐよう促された時も、まるで壊れかけの自
動人形のようで。
 のろのろと腕を上げるロイの上着を、そっとハボックは脱がせてやる。 
 
「はいはい、大佐………諦めていきましょうや」
 ぽんぽん、と。
 慰めるように、肩を叩かれ。
 ついでに耳を撫でられても。
 何をするんだ!
 と。
 あるべき怒鳴り声は、なく。
 
 ハボックに抱えられるように、とぼとぼとロイは、動物病院に入っていった。


「おや、これはこれは……」
 初老の獣医は、ロイの耳と尻尾にも、僅か目を見開いただけだった。
 なるほど。
 ホークアイが見込んだだけあって、なかなか肝の据わった人物のようだった。
「先生」
 ホークアイが呼びかける。
「彼を、ただの猫として診るならば、如何診断なさいますか?」
「猫、ならねぇ……」
 
 熱は?
 嘔吐は?
 脈拍は?
 呼吸は?
 
 穏やかな口調で問いかけられ、ロイもそれに答えていく。
 
 
 そうして。
 一通りの診察が、終わって。
 
「ふむ………」
「先生?」
 つとめて平静さを装う表情の奥に、隠しきれない心配をのぞかせて、ホークアイが問
いかける。
「いや、普段儂の患者は物言わんからのぉ。あんたさんが言われることと同じかどうか、
本当のところは分からぬが」
 そう前置きして、老獣医は、あらためてロイを見遣った。
 艶やかな毛並みの、三角耳と。
 熱にうっすら赤みを帯びた顔と。
 さぁ、何とでも言え、と。
 無駄なところで、威勢よく、胸を張った姿勢と。
「普通の猫なら、何ぞ悪いもんでも喰うたんやろう、と。そう言うところでしょうなぁ」
 のんびりした口調で、そう告げられて。
 三人は、思わず顔を見合わせた。
 
 食あたり。 

 それは、また。
 何とも。
 ありえそうな、話だ、と。 
 三人とも、思った。

 
 
「あんたさんが、リザちゃんの言われるとおり、ただの猫だというなら、ちゃんと気を
つけて、物を食べなさい」
 帰り際。
 彼は、猫の飼い方、と書いた冊子をホークアイに手渡した。
 ロイ本人に渡さないところが、何とも絶妙で。
 ロイは、苦虫を噛みつぶしたような表情を隠せず。 

 ハボックは、笑いを堪えるのに必死だ。
「ええと、猫のご飯……?へぇ、玉ねぎ喰ったらダメなんですねぇ……あ、チョコレー
トも」 
 ぱらぱら、と。
 ハボックが、ホークアイから借りた、冊子ををめくる。  
 なんだか色々と注意事項がある。
 これを、この生活能力に関しては雨の日に限らず無能な大佐が、守れるとはとても思
えない。
「………キャットフード、買ってきましょうか?」
 そう申し出たのは、冗談でもなんでもなく、本気だった。
「ハボック少尉……」
 呻くような声と。
 恨みがましい目と。
 静かに掲げられた右手には、いつの間にやら、件の手袋がはめられていて。
「うわっ、ちょっっと……」  
「……大佐」 
 命懸けに戯れる上司と部下を、その一声で制して。
 さりげなく、ハボックの手から、冊子を取り上げて。
 ホークアイは、溜め息を一つ。
「大佐。差し出がましいかとは思いますが。よろしければ、当分、お食事は作らせてい
ただきましょうか?」
 『猫の飼い方』という冊子を片手に──それも猫の餌、なんてページを──開いて言
われても、とても嬉しくない、のだけれど。
 それでも。
 中尉の申し出は、とてもとても有り難かった。
 
 
 
 そんな訳で。
 
「大佐、昼食になさいますか?」
「ああ、頼む」 

 お昼休みを迎えた東方司令部では、ここ数日ですっかり恒例行事となった会話と光景
に、つい一同口元をほころばす。
 清潔感のある生成の布に包まれたお弁当箱が、ロイの机に置かれる。
 シンプルな容器に盛られたお弁当は、ものすごく凝っている訳ではないけれど、作り
手の気遣いが溢れている。
 ほとんど調味料を使えない猫仕様の食事を、それでも少しでも美味しく食べることが
できるように、と。
 蒸したり、炙ったり、毎日できるだけ目先を変えて。
 まったく味付けのできないそれは、美味しい、とは言い難かったけれど。
 決して、不味くもなく。 

 毎日、お弁当を差し出すホークアイと。
 神妙な顔で、黙々と食べるロイと。
  
 
 
 
「ブラックハヤテ号。お前、本当に幸せなんだな」
 足元にじゃれつく犬を撫でて。
 しみじみと、フュリー曹長が呟く。 

 ホークアイ中尉は、本当に良い飼い主なのだなぁ、と。
 司令部一同は、心から、頷いた。

 
  
 
 
 
 
 
 通常。
 妙齢の独身女性が、男性にお弁当を作ってあげる場合。
 良い奥さんになるなぁ、というあたりが、標準的な感想になると思われる。

 
 「良い飼い主」としか認識されていない、この場合。
 
 ホークアイと。 
 ロイと。
 どちらにとって、より失礼な感想かは、推して知るべし、である。
 



(続)


'04.05.26  

  第六話、アイロイです〜v   ますにゃんぐネタ群の中でも、一番最初っから書きたかった話の一つ。 飼い主リザちゃんと、ますにゃんぐ。     ちゃんとしたハボロイ話だと、ご飯作ってくれるのは、 ハボの役目みたいですけど。(笑) うちの猫小屋は、一応、ロイにゃん、総受けなので、 ご飯は、飼い主(orお母さん)な、リザちゃんに作ってもらいます。        

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