「こんにちは」
「あら、こんにちは、アルフォンスくん。今日は一人?」
東方司令部を訪れた大きな鎧姿にも、最近では今さら驚いたり奇異の目を向ける者はいない。
ここの人達の、その順応性の高さは、アルフォンスにはとてもありがたい。
「はい。兄さんは、図書館を離れられなくて」
エルリック兄弟の、今現在の調べ物は、彼ら自身の「捜し物」ではなく。
ロイ・マスタングを元に戻す方法、だ。
「あの、それでマスタング大佐に少しお聞きしたいことがあるんですけど、今、会えますか?」
あくまで、控えめに、ロイの多忙を気遣えば。
「ええ、もちろんよ」
そう言って、ホークアイ中尉が、柔らかく微笑む。
彼の忙しさなら、本人以上に熟知しているホークアイ中尉がそう言ってくれるなら、本当に大丈夫だろう、と。
少し、いや大いにほっとしつつ、アルフォンスは司令官室を訪れた。
こんこん、と。
ノックを二回。
返事は聞こえない。
こんこんこん、と。
もう一度ノックをして。
「あのー……マスタング大佐?」
ホークアイ中尉が会える、と言ってくれていた以上、司令官室にいるはずなのだが、と。
おそるおそる、ドアのノブを回す。
ことん、と。
あっけなくドアは開いてしまう。
そぉっと開いた10センチ程の隙間から、覗いてみれば、ロイは机の前で俯いている。
「……あの、大佐?」
こくん、と首が傾く。
ぴくり、頭の上の猫耳が動く。
それでも呼びかけに応える気配はなく。
「……寝ちゃってる……」
どうしよう、と。
扉の前で、アルフォンスは困惑する。
少なくともアルフォンスは、常日頃からさぼり魔のロイ・マスタング大佐の実状を知らなかったので、こうい
う時は問答無用で叩き起こすべきだという東方司令部の一部における共通見解を知らなかった。
ホークアイ中尉に聞いてみるべきかなぁ、と。
ロイにとっては最悪の次善策を思い浮かべつつ。
起きてくれないかなぁ、と期待を込めてロイを見守る。
身体に沿うように、少し丸まった長くしなやかな尻尾だとか。
時々ぴくりと動く猫耳だとか。
「………」
なんだかそれがすごく気になって。
そおっと足音を殺して、アルフォンスは司令室へと足を踏み入れる。
がしゃん、と。
それでも鎧の身体は無情に音を立てて。
すっと。
何の前触れもなく、覚醒したロイは、たった今までうたた寝していた人とは思えない程、明晰なまなざしがア
ルフォンスを捉える。
残念なような。
それでいて、安堵するような。
不思議な気持ちだった。
寝ていたことは、中尉には内緒だぞ、と。
悪戯が見つかった子供みたいな顔で、ロイが口止めする。
母さんには、内緒だぞ、と。
何かやらかす度に、アルに口止めをしていた兄を彷彿させる口調に、思わず笑みが零れる。
「知っているか?アルフォンス・エルリック」
「はい?」
「猫というのは、夜行性だそうだな」
「え?は、はい……」
「夜眠ろうとしても目は冴えるし、ちょうど今頃はやたらと眠くなるし。まったくキメラというのは不便なもの
だな」
まるで、猫化して困ったことというのはそれだけだ、とでも言うような。
さりげない口調に、はっとする。
たぶん。
そんなところも、兄と同じで。。
決して、自分の苦しさを、他人に見せたりはしない人だ、と。
「………すみません」
ずっと。
気になっていて。
口に出せなかったことが、一つ。
「何故、君が謝る?」
案の定、ロイは、不思議そうな声で問い返す。
「大佐に錬成された仔猫、僕が拾ったんです」
雨の日に震えている仔猫を、どうしても放っておけないのが、アルフォンスで。
それはもう、何度兄に注意されても怒られても、どうしても、見捨てられなくて。
けれど、あの日。
見つけた小さな仔猫を鎧の中に入れていたら、ショウ・タッカーは、優しく笑って、アルフォンスに助け船を
出したのだ。
屋敷の中には、研究上必要な小動物も数多く飼われているため、その猫を飼うことはできない。けれど、屋敷
の庭の隅に置かれた物置に出入りするのは自由で、そこに餌を置いてやってもよい、と。
「それが、こんなことになるなんて………」
自分は。
取り返しのつかないことをしたのだ、と。
俯き、言葉途切れるアルフォンスを、ロイは、静かに見つめていた。
それは、ひどく静かな視線だった。
「可愛かったか?」
不意に、ロイはそう問いかけた。
「え?」
「その、仔猫だ」
「あ、はい……」
ロイの身を案じるのは、当然だけれど。
消えた仔猫をも案じることが出来るのは、アルフォンスただ一人で。
アルフォンスは、ロイの背後で時折動く漆黒の尻尾を、哀しげに見つめていた。
「大佐、あの……」
躊躇いの末、呼びかけて。
またアルフォンスは、言葉を呑み込む。
「どうした?アルフォンス・エルリック」
けれど、当然といえば当然だけれど、ロイに先を促され。
勇気を振り絞って、言葉にする。
「あの………一度だけ、触らせてもらってもいいですか?」
その、尻尾を。
「あ?何だそんなことか。君の兄さんあたりは、遠慮会釈なく掴んでくるぞ」
ロイは、こともなげに笑う。
「好きにしろ」
アルフォンスは、そっとロイの足元に跪き、その無骨な鎧の右手をおそるおそる伸ばした。
そうっと。
傷つけないように、そうっと。
柔らかく撫でる鋼の指に、ロイは、わずか目を細める。
「君は、そうやって仔猫も撫でてやっていたのかな」
「……はい」
「私に尻尾の気持ちなどは分からないが」
ことさら、仏頂面を装って。
「ひどく懐かしい気がしたのは、認めよう」
「……大佐」
ありがとうございます、と。
心から、アルフォンスは頭を下げた。
たぶん。
これは。
あの、小さな仔猫への想いなのだ、と。
アルフォンスは無理に自分を納得させる。
尻尾を撫でられて、気持ちよさそうに目を細めて、くつろいだ表情を見せるこの人を。
可愛い、と思うなんて。
でなければ、きっと、この鎧の、大きすぎる身体が錯覚させるのだ。
確かに、兄エドワードよりは大きいとはいえ。
鎧の自分からしたら、この人でさえも、とても小さくて。華奢で。
大人の、人なのに。
心の中で、呟く。
この人は、大人で。
僕達に道を教えてくれた人。
僕達の恩人、なのに。
こんなにも、可愛らしいと思うなんて。
(続)
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