エルリック兄弟に「綴命の錬金術師」ショウ・タッカーを紹介したのは、ロイ・マスタングだった。
同じイーストシティに二人しかいない国家錬金術師同士、互いに面識はあったものの研究分野も違えば
立場も違うため、直接会話を交わしたのは、兄弟を連れていった時が初めてに近かった。
少なくともロイは、タッカーに対してほとんど関心を持っておらず、あったとしても合成獣というタッ
カーの研究に対しての、生理的な嫌悪感に近い。
タッカーがこのイーストシティの司令官である自分をどう見ているか、などということについては、ま
ったく関知していなかったのが事実だ。
だから。
エドワードとエルリックを迎えにハボック少尉を送った時、伝言を託したのは、ごく微量の意地の悪さ
に過ぎず。
「ああ、タッカーさん。大佐からの伝言が」
伝言をもたらしたハボックも。
「『もうすぐ査定の日です。お忘れなく』だそうです」
その簡単な一言がどれほどタッカーを追いつめたのか、気付いていなかった。
「……ええ、わかっております」
答えた、その、狂気を孕んだまなざしにも。
エルリック兄弟のことで内密に話が、と。
タッカーより書状が届いたのが、今朝早くのこと。
彼が司令部に出向いたのでは目立つから、という理由で、夕刻、定時に仕事を切り上げたロイ・マスタ
ングは、単身タッカー邸を訪れた。
エルリック兄弟は、今日は、タッカー邸で得た資料を他の文献と付き合わせるために、朝から軍の図書
館に籠もっている。
「こちらへ」
初日に通された応接室の、さらに奥へと招かれた時、何かおかしいと気付いた。
「どこへ……」
先を行く、猫背気味の背中に声をかけた時だった。
一歩踏み出した右足が、錬成陣を踏んだ。
「……っ」
はっとして気付いて避けようとした瞬間、いつの間にか振り向いていたタッカーに渾身の力で突き倒さ
れる。
「貴様……!」
手袋を装着する間もなく、急速に発光し始めた錬成陣に、全身の自由が奪われる。
最後に見たのは、ただ虚ろな瞳でロイを見つめていたタッカーの口元に、歪んだ笑みの浮かんだことと。
錬成陣の向こうに揺れる、合成獣達の不気味な影と───。
「……っ!」
「……」
何やら言い争う声が、聞こえた。
ロイは、まだ重さを感じる瞼を、ゆっくりと持ち上げた。
「………鋼の、……?」
聞き慣れた声は、エドワード・エルリックと。
それから、あれは、ハボック少尉だろうか。
二人が連れ立ってとは、珍しい。
ああそう言えば、ハボックを迎えにやったのだったけ、と記憶を辿る。
「……?」
では、自分は。
一体?
そうぼんやりと思いを巡らせて。
見慣れない景色に、はたと気付く。
自分は、呑気に東方司令部の執務室で、午睡を楽しんでいたわけでは決してないのだ。
低く暗い天井と、生物の蠢く気配。
ここは、間違いなくタッカー邸で。
自分は、錬成陣に突き倒されて。
「……っ」
頭。腕。脚。
特にどこも痛くないし、これといって拘束されているわけでもない。
「……何があった?」
自分が意識を失うほどの、何が。
そう、考え始めた矢先。
「そこをどけっ!」
バン、と。
荒々しく正面のドアが開かれる。
その独特の足音だけで、ドアを開けたのが誰か分かった。
「騒々しいぞ、鋼の」
彼の後見たる自分の品性が問われる、と。
開口一番の小言は、けれどあっさり無視された。
エドワード・エルリックは、ただでさえ大きな金色の目を、さらに大きく見開いて。
あんぐりと口を開いた、間抜け面をさらして。
「な、な……」
無礼にも、人差し指を突き付けて。
「何だよ、それーっ!?」
耳をつんざく絶叫。
何事か、と。
首を傾げたロイは、けれどエドの後を追ってきたハボックの、ほぼエドと同様の反応に、さすがに何事か
起きたことを知る。
「何だというのだ、一体」
状況が分からず、少し苛立った口調で説明を求めれば。
「……大佐?」
つかつか、と。
ハボックが寄ってくる。
その手が、むんずと、背後に伸ばされて。
ぎゅ、と。
掴まれる。
「……ん?」
……ぎゅ、と。
何を?
ロイが、疑問に思うより先に。
「………はい」
くい、と引き寄せられて。
視界に入ったもの。
それ、は。
「……あ?」
艶やかな、漆黒の毛並みの。
ぴん、と。
細くしなやかな。
それは。
優雅な、猫のしっぽだ。
するり。
ハボックの手を逃れようとするそれを、ハボックがぎゅ、っと掴まえる。
「痛いっ!こら、乱暴に掴むな」
……掴む、な?
そう自ら発した言葉に、不思議そうにロイは小首を傾げ。
次の、瞬間。
「うわあああああ」
先程のエドワードの比ではない絶叫が、タッカー邸に響き渡った。
その時、初めて。
ロイ・マスタングは。
その、しなやかな猫のしっぽが、自分のものであることに気付いたのだった。
「……大佐、気付くの遅すぎですって」
「てゆーか、鈍すぎ?」
ハボックとエドワードの会話が、耳に届いていなかったのは。
その日のロイにとって、たぶん、唯一の幸いだった。
(続)
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