金木犀
1・
夕暮れの薄紅に染まる街角。
ふうわり立ちこめるのは、甘く濃密な花の香り。
古い、市庁舎の建物前で、天蓬はその足を止めた。
初秋。
金木犀が、町のあちこちで満開になっていた。
その数があまりに多すぎて、いったいどの木から香っているのかさえ判然としない程に、
町全体が花の香りに包みこまれてしまっている。
その、町全体を包み込むような、独特の空気のせいだろうか。
こんなに甘いくせに、どこか人肌の温もりの恋しくなる香りだ、と。
天蓬は、ぼんやりと思う。
あるいは、この数日でめっきり温度を下げた、この下界の風のせいだろうか。
「こちらでしたか、元帥」
部下の一人が、呼びに来る。
「総員配置いたしました」
少しだけ硬度を増す空気。
ひとときの休憩が終わる。
「捲簾からは?」
「まだ何も」
その返事に、天蓬の纏う空気がまた僅かに硬くなる。
けれど天蓬は、それさえも力へと変えるように、部下へと笑ってみせる。
「なら僕達の勝ち、ですね」
隊を分ける時に、捲簾と賭けた。
どちらがより早く、より完璧に作戦を終了してのけるか。
天界に戻ったら、負けた方が、酒を奢ること。
「では、行きましょうか」
甘い花の匂いの下で、戦いが始まる───。
2・
夜半。
天蓬はライターの火で、懐中時計の針を読んだ。
午前1時15分。
夜の静寂に、動きがあった。
天蓬は、一人立っていた丘の上から、野営地の方へと視線を下ろす。
決して深更の静寂を掻き乱すことなく、整然と一団が帰還してきたのが見えた。
揺れる、灯り。
押さえた声が、それでもあちこちで行き交い始める。
少しの間をおいて、ごくごく小さな光が一つ、丘を上がってくるのが分かった。
赤い小さな光は、煙草の火。
草を踏む小さな足音をその耳が捉えると同時に。
「よ」
声が、かかった。
「お疲れさまです」
天蓬は、目を細めて、柔らかく笑った。
「何だ?そっち、ずいぶん早く終わったって?」
「おかげさまで」
「ち、俺らの奢りかー」
「当然です」
夜闇の中。
抑えた声で交わされる軽口は、ただそれだけで、まるで忍びやかな睦言のようで。
折からの風に、はらり小さな花弁が二人の上に、まるで雪のように降って落ちる。
「金木犀……だったか?」
捲簾は、傍らの大樹を見上げた。
「ええ、そうです」
花を愛でる情緒には事欠かないものの、人の決めごとに過ぎない花の名を覚えるなどという
ことには無頓着な捲簾が、珍しく花の名を口にしたことに、天蓬は僅かに驚きを覚える。
その、一種の隙をつくように。
不意に、抱き寄せられた。
「……捲、簾?」
驚き、よりも。
その腕を待ち侘びていたような、錯覚に。
かすれがちな声で、そっと名を呼ぶ。
夜の闇と。
静寂と。
そして、噎せ返るほどに甘く濃厚な花の香り。
触れたくなるのは。
抱きしめたくなるのは。
きっと。
この花の香りに、誘われたからだ───。
'02.10.09 a.m.01:37
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