バイプレーヤー



 たとえば、来神高校を舞台に物語を書くとする。
 主役は十中八九、彼らのうちのどちらかだ。

 彼ら。──折原臨也。あるいは、平和島静雄。
 
 平和島静雄を主人公にするならば、ヒーロー物、だろうか。
 スーパーマン然り。スパイダーマン然り。
 超人的な力を持つヒーローは、時に己が力と正義に苦悩するのが、お約束だ。
 
 折原臨也を主人公に据えるならば、ピカレスクか。
 狡猾にして、非道徳。成功し、そして凋落する。

 ならば、自分は。
 名もなき、クラスメートその一か。
 さもなくば。



 そんな風に自分の存在意義を問うこと自体が、青くこっ恥ずかしい青春の1Pであったと今の門田京平は、痛感している。
 なんてことはない。
 自分を物語の中の一員と仮定してみるあたり、二次元に行きたいと日夜主張しているワゴン後部座席の住人と根本的な変わりはない。
 つまるところ、狩沢も遊馬崎もその表現方法が違うだけで、よく似ているのだ自分達は。



 青い時代は、通り過ぎたけれど。
 自分達の生きる池袋の街には、今日も都市伝説が黒いバイクで馬の嘶きと共に走り抜け、自動販売機が空を舞う。
 ハリウッドよりも余程出鱈目な、この街で。

 クラスメートその一から、ダラーズの一員とその役名は、変わったけれど。
 今も脇役その一であることを、門田は自覚している。
 自覚している程度には、今も、割と二次元よりに生きている。

 付け加えるなら、その物語の主役を静雄か臨也で想定した、なんてことは誰に知られてもいいから狩沢にだけは知られてなるものか、と思っている段階で、既にものすごく同類に近付いていることには、まだ当分気付きそうにないのは、たぶん門田にとって幸せなことだ。





9/19 クロスロードの無配だったもの

ドタチンについてつらつら考えてみた