面影雛



「……」
 スーパーの入り口に、安っぽいビニールのピンクの花がディスプレイされていた。
 その下には、箱ごと積まれたひなあられ。
 明日は雛祭りだと、厚紙のポップが主張している。
 杏里には雛祭りの思い出は乏しい。
 子供の頃幼稚園で折り紙のひな人形を作らされたりしたくらいだ。
 雛祭りもクリスマスも誕生日も、家で両親と何かをお祝いした記憶なんてない。
 あるのはただ父の罵声と、暗い色をした母のまなざしと。
「あ……」
 ああ、もう一つ、覚えている。
 古物商だった家の店先のガラスケースには、春になると飾られていた古い雛飾りが一対。
 人形の顔も着物も古く色褪せてぼんやりした色合いで、全体の印象はただただ薄く白茶色。
 一度だけ尋ねた友人の家で見たことのある段飾りの、お雛様の金糸や官女の鮮やかに赤い袴とはまるで似ていない何かだった。
 あれはいつまで飾られていたのだろう?
 母の手にある罪歌によって父が斬られたあの年の3月3日にも、人形はまだあそこに飾られていたのだろうか。杏里は覚えていなかった。


 学校帰り、ふと足が向いてしまったのは昨日珍しく幼い頃の景色を思い出してしまったからだ。
 十年位前の同じ日には雛飾りが置かれていただろうショーケースはベニヤ板で覆われ、それもまたこの数年の風雨にすっかり黒ずみ汚れている。
 その向こうの雛飾りを思い出すためのよすがは、もうここにはないと分かっていたのに足を運んだのは自分が愚かだからだ、と溜め息一つ。
 帰ろう。もうここには何もないのだから、と顔を挙げて踵を返そうとしたところで、声がかけられた。
「おや、奇遇だね」
「赤林さん。こんにちは」
 ぺこり、と頭を下げる。
「こんにちは、元気だったかい?」
「はい。ありがとうございます」
 ざわりと心の奥で心が揺らぐ。
 何も感じないように生きてきた額縁の向こう、幼い杏里がショーケースを見上げている。
「あの、…」
「ん?」
「あ、すみません………あの、赤林さんは、ここに雛人形が飾られていたのを覚えていますか?」
 昔から母の知り合いというのなら店にも訪れていたかも知れない。そんな期待が杏里の普段はなかなか開かない口を開かせる。
「雛人形かい?うーん……」
 顎に手をあててひとしきり頭を捻って、それから赤林はさも残念そうに、
「すまないねぇ、どうも覚えちゃいねぇみたいだ」
と、答えた。
「そう、ですよね。すみません」
 ありがとうございました、と頭を下げる。
 他人に期待をすることなどとうに忘れたはずの心が、少し沈み込むのを感じる。
 恩人、だと思う。
 返しきれないほどの恩を負っていると思うからこそ、あと一歩と許されるかもしれないと期待してしまうのかもしれない。
「そういや、今日は雛祭りだっけ?女の子いないとぴんとこなくてねぇ。……雛祭りって何するんだい?」
「さぁ、私もしたことがないんです。ただ昔そういえば母がここに人形を飾っていた気がして」
「ああ」
 たぶん、何かを知っているらしい恩人は、少しだけ濃いサングラスの向こうの目を細めた。
 それから、携帯を取り出して何やら操作をし始める。
「あ、私はこれで……」
 仕事の連絡だろう、と頭を下げて杏里が去ろうとすれば、
「ちょっと待って」
 と呼びとめられる。
「……」
「露西亜寿司は杏里ちゃんも行ったことあったっけ?」
「はい?」
「じゃあ、あそこにしよう。あそこなら安全だ」
「え?」
「雛祭りってのはちらし寿司を食べるもんらしいよ」
 たまにはいいだろう、と手招かれて、杏里に断る言葉はなかった。



「雛人形ねぇ」
 昼間の杏里の言葉を思い出す。
 思い出そうとしてはみたものの、赤林の記憶にある園原堂は遠景に過ぎず、深夜の街灯の下煌めく銀刃が蘇るばかり。
「記録はあるか」
 杏里の生活のため、残された骨董品の売却を手配したのは赤林だ。その多くは知り合いの別の骨董屋へと纏めて売り渡した。気になって記録を探せば、確かに何体か古い人形があったことが分かった。
 急ぐことではなかったが、気になることを放っておける性分でもない。
 久しぶりだね、いやちょいと聞きたいことがあってね、と翌日早速電話をして尋ねれば、どうやら杏里が話していたものらしい古い雛人形は、しばらくそこに残った後、人形を多く扱う別に店へと譲渡されたとのことだった。連絡先を聞いて、その店へと問い合わせる。しばらく待たされた後、人形がまだそこの倉庫に眠っていることを知らされた赤林は、それを買い取ることにした。
「へぇ、これがねぇ」
 そうしてさらに数日経って、赤林の手元へとやってきた、色褪せた一対の人形は、お世辞にも可愛らしいという印象ではなかった。
 昨今デパートに並ぶそれとは随分と趣の違う、無表情で色褪せたそれはどちらかといえば不気味に近い。
 あれから数日過ぎた街中は、もう雛祭りなど遥か昔のことという顔で、ホワイトデーの文字が躍っている。
 杏里の手元に戻してやろうと思ったものだが、完全にタイミングを逸した感があった。
 来年か。
 けれど、来年自分達はまだ今年のように、何も知らない顔で並んでちらし寿司を食べることができるのだろうか。
 池袋に忍び寄る不穏な気配を誰よりも感じ取っている男は、さてどうしたものかと、古びた人形を前に途方にくれた。





 






雛祭の日にあげた、赤林さんと杏里ちゃんの話。