Fly me to the Moon いつの頃からか、静雄は欲求の乏しい人間だった。
人は彼の、怒りと暴力の衝動に駆られた姿だけを見て、彼を激しい人間だと理解するだろう。それは間違いではないが、彼の一面でしかない。 異常に沸点が低いとはいえ、怒りさえ呼び起こされなければ、彼はどちらかといえばぼんやりと鈍く、何事にも淡泊で、欲の少ない性質だった。 性的な欲求に対してもそうで、健康な若い成人男子としてはいささか問題ではないかと思われる程度には、異性に対して関心はなく、だからといって同性に対して性的関心があるということは無論ない。その年齢の男子であれば当然持っていて然るべきしたいやりたいという欲求を意識したこともほとんどない。不能ではないので、生理的に溜まるものは溜まるが、それも臨界点に達した頃、ああそういえばなんか溜まってるなぁと排泄感とほとんど変わらないものを感じ、己の手で適当に扱き、絞り出すことで用は足りていた。世間に溢れるAVの類を必要としたことも全くない。 昇華という概念があるが、確かに彼の性的な欲求のすべては、怒りという感情と暴力という発散に昇華されていたと言っても差支えなかっただろう。 弟である幽の無表情が後天的であるのと同じように、静雄には他人に対する一種の無関心さが常にあった。おそらく無意識に距離を取っていたのだろう。 新羅やセルティ、門田といった学生時代からの知人達を積極的に拒否するわけでもないが、自分から深く関わろうとしない。 そうすることで他人を傷つけ、そのことで自分自身の心も傷ついていくことを巧妙に回避していた静雄の前に、少し一人の男が現れた。 四木、という男は、池袋をシマとする粟楠会の幹部で、静雄の嫌う暴力の世界に生きる男であり、真っ向から静雄の力を肯定していた。 彼の意図が静雄を利用しようというものであれば、出会った瞬間に殴りとばしていただろうが、あいにく彼の目的は静雄が粟楠茜という少女を助けたことへの謝礼であり、殴るタイミングも嫌うタイミングも逃している間に、いつの間にか親しくなった。 少しばかりの擦れ違いを経て、静雄は四木に好きだと告げられた。 そう告げられて、静雄は自分もまた四木に対して好意を抱いていることを自覚し、彼に選択を迫られた時、離れることよりも愛人となることを選んだ。 実のところその瞬間まで、静雄の中にその発想はなかったけれど、目の前のことをひどくあっさりと受け入れるのは、静雄の長所といえなくはなかった。 そうして、静雄は四木とセックスをした。 四木に抱かれてから、もうすぐ一カ月が経つ。 その間、二人の関係は、それ以前と驚くほど変わりなかった。 四木は日常的に忙しく、たまに池袋の界隈で会って夕食を共にした。 四木に連れていかれる店は、借金を抱えた静雄の安月給には厳しく、たぶんそれも見越した上で、年上の顔は立てろ、と笑って四木は二人分を支払う。 腹いっぱい美味いものを食べて、ごちそうさまでした、と礼を言って別れる。 たまに、土産だと言って小さな包みを渡されることもある。たいていは上等なクッキーやチョコレートの小箱で、たまに渋く季節の和菓子であることもあった。 おやすみ、と人気のない路地で別れ際、軽くキスされたこともあった。 いつもでは、なくて。 それ、だけ。 一度、四木の家に招かれたこともあった。 まだ、それほど日も経っていなかった頃だ。 貰いものだという蟹で鍋をして、少し日本酒を飲んで、眠くなった静雄は客用寝室に案内されて、一人で眠った。 彼の家に泊まるということが必ずしもそういうことをするというわけではないだろう、と静雄は思い、特に何の疑問も覚えず、良質なスプリングの利いたベッドで心地よく熟睡した。 それさえも布石だった、なんて思いもよらずに。 ヤクザの愛人になるかと誘われ抱かれたあの日がまるで嘘みたいに、それ以前とまるで変わらぬ穏やかさで静雄に接し、何の疑問もなくそれを受け入れていた静雄はひと月を経て、ようやく違和感を覚えた。 あれ以来、四木は静雄を抱こうとする素振りも見せない。 しないんだろうか? そういうもんなのか? 二十数の年まで経験もなく生きていた静雄には、他人の平均的な性交回数など分からないが、何かあってもいいのではないだろうか? そんな疑問で留まっていられたのは、少しの間だった。 「静雄?」 「……」 「静雄?どうした?具合でも悪いのか?」 不意に至近距離から覗きこまれて、心臓が跳ねた。 「あ、いや」 そうだった。 今日は、ひさしぶりに四木の部屋に来ていたのだ。 今日の口実は、美味い酒を貰った、だった。 まずは一杯、と差し出されたコーヒーに、砂糖とミルクを二つ。 たっぷりと甘くしたそれはコーヒー好きな人間なら、豆がもったいないと嘆きそうな顔代物だったが、四木はたいてい面白がるような顔で、静雄がコーヒーを飲もうとするのを眺めている。 「まあ、お前がぼんやりなのはいつものことか」 くくっと笑うその声に、からかう響きはあっても愚弄の色はないので、静雄は聞き流す。 どちらかといえば、無愛想。無表情。 そんな四木が自分に機嫌のよい表情を向けるのを嬉しいと思う程度には、静雄は四木のことが好きだ。 今は屈託ない調子で笑っているその唇が、あの日、静雄に触れた。それこそ体中至るところ触れられていないところなどないという程に、濃密に。 ざわり、と体の中で蠢くものを感じる。どくりと血が流れる。 随分力のコントロールができるようになったとはいえ、物に触れば壊してしまうことの多い静雄は、端的に言って不器用だ。自分に比べればたいていの人間は、器用ということになる。 四木のことも、静雄は器用だと思っている。 その器用な手が、静雄の身体に触れ、性器を扱き、後口を開いた。 自らの痴態と触れられた時の快感を不意に思い出し、静雄はかっと顔が熱くなるのを感じた。 何で、こんな時に、と思いうろたえる。 羞恥と。 それから、覚えのある、切羽詰まったような感覚。 「静雄?」 触れたい。触れられたい。 衝動は唐突に見えて、本当はこの一カ月ずっと静雄の中で燻ぶり続けていた情欲だった。 「どうかしたのか?」 体温を感じるほど間近にいるのに、四木は触れてこない。 いつもなら、その掌で頭の一つも撫でてくるというのに。子ども扱いされているとしか思えないそれが、恋しい。 どうか、子供みたいにあしらって。そうすれば、こんな衝動、やり過ごせるから。 子ども扱いしないで。ちゃんと、恋人らしく、扱って。 「どうしたいんだ?」 不意に突き付けられた言葉に、はっとする。 「お前は、どうしたい?言ってみろ」 ああ、そうか、と気づく。 四木と出会ってこの方、いつだって、行動を起こすのは四木で、静雄はそれを待つばかりだった。 単に性交の際のポジションの問題ではない。 誘われた。告白された。抱かれた。何もかも、受け身だった。 むろん、静雄の意思に反してということはまったくない。 すべて、同意の上だ。 むしろ少しでも静雄が拒否をすれば、四木は何事もなかったのようにその手を引っ込め、そして何事もなかったかのように静雄の前から姿を消していただろう。 そして、静雄も何事もなかったかのように、四木を忘れるのだ。 そんなのは嫌だ、と強く思った。 「四木さん」 「ああ?」 「好きです」 恋人なのだ、と思いを込めて、唇にキスをした。 口をおしつけて、どうしたらいいか分からなくなったところで、四木の方から舌で誘われて、この前の記憶を頼りに、自分から舌を伸ばした。 煙草の匂いがした。自分とは銘柄の違う、煙の匂い。 |
オフで出した「Cry for the Moon」の続き的な気持ちで書き始めたものの 着地点を見失った四木静 たぶん、二度目のHが書きたかった んだと思う |