月光 平和島幽が、羽島幽平として人気を集め始めた頃から、否、兄弟がそれぞれに家を離れ自活し始めた時から、兄弟で過ごす時間はゼロに近く減った。 幽の仕事が池袋であれば、顔を見に寄る。時間があれば、食事くらいは一緒にする。 だが、たとえば互いの自宅を行き来することは、この数年全くなかった。 マナーモードの携帯がバーテン服の尻ポケットで数回震えた。 メールだ、と歩調を変えぬままチェックをする。 差出人;幽 件名;会いたい 本文;(空白) まるで恋する少女が恋人に送るような、一言、件名だけのメール。 だが幸いにしてというべきか不幸にしてというべきか、そのような恋するメールを少女と交わしたことのない静雄は、ただ弟に何かあったのだとだけ思い、次の角で大通りに向かって右折し、大通りに着くと同時に挙げた右手で、タクシーを止めて、一言短く行き先を告げた。 深夜のタクシーの運転手は当りハズレが大きい。運が悪ければあれこれ詮索するお喋り好きの運転手に当り、途中でキレて道半ばにして移動手段を失う。だから今夜は運が良かった。運転手は寡黙で、運転は丁寧だった。むろん、わざと遠回りをして料金を水増しするような真似もすることなく、 メールを受け取ってから20分も経たないうちに、静雄は1度か2度しか訪れたことのない弟の所有するマンションのエントランスへと足を踏み入れた。 「幽?いるんだろう?」 合鍵は持っている。 オートロックを自分で解除して、躊躇いなく、最上階の彼の居室に向かった。 玄関のドアを開ける前に、ノックを2回。 キレていない今なら、気をつけてさえいれば、ノックのつもりが拳でドアの鉄板をぶち抜く心配もない。 「兄さん?早かったね」 平坦な、何の感情も浮かべない声。 「どうした、幽?何かあったのか?」 前置き無用と静雄が問いかける。 「頼みがある」 何かを思い詰めたような、とか。躊躇いがちに、とか。 頼みの内容を推測し身構えさせるような手がかりの一切を幽は与えない。 「何だ?」 「セックスしたい」 「……は?」 さすがに静雄は呆気にとられた。 自分の耳はおかしくなったのかも知れない、とも思った。 「……」 幽はそれ以上余計な言い訳もくどくどしい説明もうっとうしい懇願もなく、黙って静雄の返答を身動きもせず待っていた。 ありえないだろう。兄弟だろう俺達は。 静雄の頭の中をよぎったのはそんな当然の台詞で、けれど小さい頃から自分より頭もよく思慮深い幽はそんなこと当然分かっているはずで、だから静雄はそんな当たり前すぎることを言葉にすることをやめて。 「分かった」 かわりに至極簡潔に頷いた。 弟が、何を考えているのか。何を望んでいるのか。 静雄には分からない。分かろうとすることを容易に放棄するのは、静雄の悪い癖だ。 けれど。 弟を信じている。 ただ、それだけ。 それだけで、頷けた。 「あ、」 「何?」 無駄に、広い寝室。広いベッド。 枕を並べて、家庭サイズの小さな布団で一緒に寝たこと、なんて。 いくらだってある、のに。 不意に幽の要望がひどく生々しい現実となって眼前に突きつけられた。 というか、この期に及んでようやく実感した。 「お前、挿れたいのか?挿れられたいのか?」 言葉になったのは、ひどく即物的な問いかけ。 ただでさえ語彙の少ない静雄は、身も蓋もないしかベッドの上で交わす言葉を知らない。 まるで何も聞こえなかったように、幽が答えるまでは少しだけ沈黙があった。 「兄さんの好きな方でいい」 「そうか」 己の見栄を張ってもお世辞にも豊かとはいえない経験値を省みて、静雄は迷いなく己の取るポジションを選んだ。 広いベッドの上。二人向かい合って行儀よく座って、静雄は伸ばした右手で幽の後頭部を支えてそっと抱き寄せて、自分も上体を傾けて慎重に唇を触れ合わせた。 触れるだけの。海の向こうなら兄弟のおやすみのキスといっても通用しそうな。子供みたいな。 言葉もなく。表情もなく。じっと瞬きもせずに見つめたままキスを受け入れるのに気付いて、静雄は小声で注文をつけた。 「目、閉じろ」 「うん」 白い瞼が下ろされ、長い睫毛が小さく震えた。 もう一度口付けて、今度はその形のよい唇に舌で触れた。 薄目を開けて覗けば、幽は静雄の言いつけどおりに、きちんと目を閉じている。 一度、離れて。もう一度。今度は、もっと深く舌を差し込めば、小さい頃から虫歯一つない、綺麗な歯に阻まれる。 拒まれたことがなかったので、こういう場合はどうしたものかと一瞬思案していたらすぐに察したように障壁はなくなって、柔らかな口内へと侵入が許された。 彼の作品に、キスシーンはあったろうか?ふとそんなことを考えた。たぶん、あったはずだ。ベッドシーンも。 キスをして。抱きしめて。丁寧に相手の服を脱がす。 少女マンガのそれみたいに行儀のよいセックスの手順だった。 静雄の知るそれとも、AVで見たそれとも違う、こうあればいいと願う幻みたいな。 無表情にベッドに投げ出された裸身は、まるで飾るべき衣服を剥がされ、売り場の床に無造作に転がったマネキンのようだった。運送の仕事をしていた時に、見たことがあった。人形のようだと思わなかったのは、単に彼に人形で遊んだ記憶などないからだ。 どんな役柄も自在に演じられるように、と日頃から鍛錬を怠らないらしい幽は、バランスのよい骨格に薄く筋肉ののった綺麗な身体をしている。それはもう女性達が夢中になるのも当然なほどの。 その、胸元にくちづけを落す。肋骨の終わり。脇腹。くちづけが降りていく。 下腹。表情と同じくまったく反応を見せない、性器の付け根。 感情というものを手放した幽は、羞恥を覚えることも、興奮を覚えることもない。 そんなこと、知っている。分かっている。 分かっていた、はずなのに。 不意に、理解してしまった。 幽は、たぶん誰ともセックスなんてできない。感じることも応えることもできない彼に、通常の人間ならきっと耐えられない。 下手くそ。恋人同士みたいな長いキスの後に、罵る言葉も。やめろ。痛いってば。この、暴力男。胸元を愛撫するたび、文句と共に脇腹を容赦なく蹴り上げてくる膝も。やだ、やめ、や。次第に饒舌さを失って、甘い喘ぎに取って代わられる言葉も。最後には言葉さえなくして、ただ甘く鳴くだけになる声も。 ここには、なく。 ただ。 応えたいという真摯な想いだけが、懐かしい掌で、静雄の頬を撫でる。 大きすぎる力に耐えかねて壊れ続ける身体に、ただ病院の白い天井を睨んで絶対安静で横たわり続けるしかできなかった幼い静雄の手をそっと撫でたのと同じ、掌で。 本当は触れるのは、怖かった。 鋼鉄をぐにゃりと曲げてしまえる自分の手で触れるには、未反応な性器は人の内臓そのものの柔らかさで曝け出されていた。 大丈夫。加減できる。コントロールできる。 信じろ。自分を。自分を信じてくれる弟を。 強く強くそう念じて、指で撫で、口に含む。 得意な行為ではない。したことがない訳じゃない。ただヘタクソと罵られたことがあるだけだ。「彼」は、その行為を施されることよりも専ら施すことを好む。言葉と同じくその舌先三寸で静雄を翻弄し、嘲笑う。だから、好きな行為じゃない。 好きじゃない、けれど。どこをどうすれば、器官がそれを快感と認識するかを、知っている。 思ったより早く、身体的な反応は表れた。 きちんと形を変えた器官。上がる脈拍。乱れる呼吸。 気持いいかなんて訊かない。答えられるはずなんてないのは分かっている。 気持ちいい?気持いいだろう?ほら分かっただろう?君だって。「彼」は言葉にしたがる。言葉だけが彼という存在を形作っているかのように。 「本当にいいんだな?」 往生際が悪いと思いながら、最後にもう一度静雄は尋ねた。 ほんの少しでも幽がここで躊躇ったり拒否を見せるなら、終わるつもりだった。 男は止まれないといわれるけれど、そもそも静雄は弟に欲情しているわけではない。怒りキレた自分をコントロールできるかどうかは相変わらず自信がないけれど、今なら確実に自分を制御できる自信はあった。 けれど幽は、羞恥でも興奮でもなく生理的な反応として頬を上記させ瞳を潤ませて、けれどやっぱり 「うん、お願い」 と短く呟き、静雄の退路を断った。 人間なんて単純なものだ、と誰かのように大上段に構えるつもりはない。 だが、少なくとも単純な自分は、自分以外の身体に性的に触れることで意識とは無関係に昂ぶったし、お前もやってみるか?と小さな頃新しい遊びに弟を誘った時とさして変わらぬ様子で提案してみれば、やはりその頃と同じようにうん、と頷いた幽が静雄の性器に触れてきたので、挿入に必要な硬度は得ていた。 丁寧に時間をかけて慣らしたつもりでもひどくきつく、そうではないかと大体見当はついていたけれどやはり幽はこういうことを体験したことはないのだろうと静雄に確信させた。 それは同時につまり「彼」の経験値の高さを静雄に思い知らせることとなり、なんとも複雑な気持をも呼び起こしかけたけれど、意識を目の前の存在に集中することはそれほど困難なことではなかった。 依然として表情筋は動くことを頑なに拒否しているかのようだったけれど、上気した肌も荒くなった呼吸も確かに彼の身体が感じていることを示していた。 達するその瞬間、確かにその顔が歪み、小さく呻きとも喘ぎともつかない声をあげた幽かを、静雄は抱き潰さないよう細心の注意をもって抱きしめた。 小さく開いたカーテンの隙間から、月明かりが細く差し込んでいた。 「どっか折れてるところはないか?関節が砕けたりとか、してねぇよな?」 翌朝、静雄が最初にしたのは相手の身体の心配だった。 セックスの翌朝相手の体を気遣うというのはそれほど特殊なことではなかったが、心配するポイントが通常と違うのは致し方ないことだ。 「大丈夫。少し痣が残っているだけだ」 青い痣と。赤い痣と。意味の違う、二色の痣。 それを己の目でも見てとって、静雄はやっぱりいたたまれない気持になった。 少しだけ、沈黙があった。 「もうこういうことはするんじゃない」 中学生の弟が煙草を吸っているところを見つけた兄のような口調で静雄はそう言葉にした。 「うん。ごめんね」 頷く幽はやっぱり無表情だったけれど、それでも昨夜とは違う何かであることを静雄は気付いていた。 「兄さんのせいじゃないよ。これは俺の問題だ」 「ああ、分かってる」 長い間、静雄は幽がこうなってしまったのは自分のせいだと思ってきた。 今も、そう思っている部分はある。 けれど。 たぶん。 これは、自分達兄弟二人の上にふりかかったことなのだ。 あの日、兄弟喧嘩の最中に、静雄が冷蔵庫を持ち上げたその瞬間から。 二人の。 今夜も、小さなテレビの画面にはドラマが流れている。 このドラマでの幽は、恋に狂い人生を転落していく男の役だ。 『僕は君を愛している。君が僕の全てだ』 ぎらぎらと熱っぽい目を相手役の女優に向けて、幽が、否、羽島幽平が、違う、なんとかというありふれた名前の恋する男が、前に踏み出す。 例えば、こんな風に熱っぽい目と口調で、彼が静雄に恋情を向けて性行為を求めてきたのなら、きっと静雄はきっぱりと拒絶していた。 そんな思いなら、受けいれることも、応えることもできない。 けれど。 うっすらと朱を帯びた肌と顰められた眉と、それから小さな喘ぎ声を思い出す。 それから。 細く差し込んでいた月の光。 静雄は、幽を信じたいと思う。 だから、静雄のせいではないという幽の言葉を信じようと思い、自分が不完全ながらも自分を愛し自分を制御するための一歩を踏み出したように、彼が感じることをもう一度その手に取り戻すための一歩を夜の闇の踏み出したのだと信じようと思い、あの夜差し込んでいた一条の光を信じようと思った。 |